風_UlulU 徹底考察

はじめに

今回は3人組バンド「UlulU」の「風」という楽曲を紹介したい。この曲は一見シンプルなギター&ドラムのJ-ロックだが、小沢健二以外でここまで歌詞が洗練されている作品はなかなかない。歌詞の基本にあまりに忠実でありながら独自性に満ち満ちている、まさに最高にプリミティブな楽曲だと考える。


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Aメロ1

電車から降りて 後ろから小突いてくるおっさん 「早く行け」と

分かっているよ ちょっとだけ 足が前に出なかったの

  • 前半の具体からは状況を端的に示し、感情は見せない。そして後半で、しっかりと具体に対する感情を「足が前に出なかった」という具体に乗せている。具体と抽象を意図的に使いこなしているが一目瞭然だ。
  • 「おっさん」「小突いてくる」と言った口語も歌詞に独自性と親近感を与えてくれている。

 

Aメロ2

帰りのバスの本数少ないけど 32分があるぜ 15分だってある

歩いてだって帰れるぜ 足が二本もあるから

  • Aメロ1と連動した具体。「帰りのバス」から歌詞の主人公が電車とバスを乗り継がないと帰宅できない状況を暗に説明している。そして「32分」「15分」という時間間隔を示すことで、バスの本数が少ない夜の時間帯(都会前提)であることもわかる。
  • Aメロ1と同じ構造かと思いきや前半部分に非常に具体的な並列を持ってきた。なかなか味があって独創性が高いと言える。
  • Aメロ1と同様に「だって」「あるぜ」と言った違う角度からの口語を使えている。
  • 後半は抽象と言っていいだろう。Aメロ1と同様に具体と抽象を兼ねた高度な表現とも捉えられる。本当は歩いて帰るには遠い距離だけどその時の「感情」がこのフレーズを使える状態だという具体っぽい抽象と捉えられる。「足が二本もあるから」は「絶対に帰れる」という安心感を表現したものか、そのときの気前(感情)を表現したものか、その解釈は確定できない。

 

Bメロ

向かい風吹き抜け 三輪車を漕ぐ女の子 進みたい道を選んでいこうぜ

  • Aメロからの物語の連動性が非常に明確化されている。
  • ここから、曲名である「風」も登場した。
  • 電車、バス、歩きに続いて三輪車と手段が多様に示されている。(ただ「三輪車」は妄想の可能性あり)
  • 「三輪車」という具体名詞は投影・比喩か?それとも語感合わせか?投影・比喩ならば「安定」を表現しながら、女の子は主人公になるだろう。語感合わせの場合だと「自転車」という表現を避けたのかということになる。
  • この楽曲の根幹となるメッセージは「進みたい道を選んでいこうぜ」であることがわかった。そうすると「三輪車の女の子」は自由の象徴という立ち位置になるのか、この辺り未規定性も残っていて非常に良い。

 

サビ1

ちょっとブルーな足取り Android Destination

現代の技術の場合 本当にそうなるかもしれないとか 考えていたら

風が歌った

  • 初めから見てきて動きにフォーカスした具体が多いことが分かってきた。そして「ブルーな足取り」という具体と抽象の抱き合わせを再び表現してくる。
  • Aメロ1「足が前に出なかったの」の感情が「ブルー」で一意となった。「ちょっと」という副詞も2回目であることから微妙な感情の動きだと示したいようだ。
  • 言語性にも着目しよう。ひらがな、カタカナ、英語、漢字(特異な表現なもの)と4つの言語的要素を上手に使おうとしているように思える。特にサビは、独自性だけでなく英語と漢字による微妙な意味の未規定性を高めているように考える。
  • Bメロで示されたメッセージを補う感情が表現されている。個人的には、感情から転じて、思考が少し気難しくなっている感覚を表現してくれているのが非常に好みだ。
  • 「風が歌った」と言って比喩として曲名が再び登場したと共に、視点のシフトもこの短いフレーズで見事にクリアしている。

 

サビ2

情緒が不意につらなって 思いついた近道で Distraction

なんとか歩けてはいるが

どうぞ 徒然なる風よ 歌って

  • 「情緒」という以上に曖昧な表現と「つらなって」という独自の表現をつなげて「なんとなく共感できそうな感じ」を生み出していると感じた。
  • 具体の面白さで言えば、「思いついた近道で」とあることから完全に主人公はバスに乗っていないことが確定した。「なんとか歩いてはいるが」からは実は主人公が「ちょっと」ではなく「結構」しんどい感じがここではっきりしてくる。
  • サビ1とお洒落に英語で韻を踏めている。
  • 「徒然なる」とは「することがない」「退屈な」といった意味の形容詞。そしてサビ1では「風が歌った」がここでは「風よ歌って」と表現している。このことからサビ1からの感情の変化・機微を表現しているものではないかと考える。Bメロにある「進みたい道を選んでいこうぜ」に準えるなら、「進みたい道を選んではいるが楽ではないぜ」と言いたいのかもしれない。

 

おわりに

改めて「風」という曲の完成度の高さに驚愕する。Aメロではシンプルに具体と抽象を兼ねる高等な表現でまとめ上げ、Bメロでは歌詞の抽象度を上げるともに明確なメッセージ性を提示し、サビでは独自性を出しながらメッセージを上手に補いかつ、具体の物語性も丁寧に継続させる配慮が行き届いている。短い歌詞ではあるが、すべての言葉が洗練されていて、宝石箱のような楽曲だと感じた。UlulUの歌詞は他の曲の歌詞の完成度も非常に高いのでまた違う機会に論じたい。

 

 

 

ローラースケートパーク

はじめに

 「ローラースケートパーク」は、1993年9月にリリースされた小沢健二さんのファーストアルバム「犬は吠えるが、キャラバンは進む(その後「dogs」に改題)」に収録され、曲順の最後を飾る楽曲だ。7分を越えるゆったりとしたメロディーラインと、あまりに詩的な情景の輝きが印象的であり、また初期の小沢健二さんの中でも異色な魅力を放つのがこの作品だ。そのエキゾチックな観点にも注目しながら読み解いていきたい。

 

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小沢健二 ローラースケート・パーク 歌詞 - 歌ネット

 

本文

 

Aメロ1

長(が)いを不器用に伸ばし 赤(か)いTシャツ女の子

ずかしげに歌(た)を歌(た)い の耳にも届くよ

汗(せ)をきオレンジをじり 耳の後ろにき上げた髪(み)

ローラースケートで滑って回ろう 土()曜日の公園(うえん)

 ・「長い手を~Tシャツの」は「女の子」を修飾する言葉だ。そして「恥ずかしげに~届くよ」はその「女の子」を主語とした文章として成立させている。非常に印象的な歌詞で、シーンがかなり具体的に作りこまれていることから、小沢さん本人の実体験に基づいた場面のように思える。
・「Tシャツ」「オレンジ」とあることから、季節は夏ごろと考えられる。
・小沢さんは女性を「彼女」と表現することが主なことから「女の子」というフレーズは少し特殊な意味合いを持っているはずだ。
・「恥ずかしげに歌を歌い 僕の耳にも届くよ」から「僕」が「女の子」の近くにいることが確認できる。(余談だが「彗星」における「僕の部屋にも届く」などを連想した方もいるかもしれない。個人的には「伝わる」を避けて「届く」を用いているように感じられる)
・小沢さんとしては珍しく同じ単語(ここでは「耳」)が短いスパンで二度も登場しているが、確実な使い分けがなされている。また特に「耳の後ろにかき上げた髪」という表現は「flipper’s guitar」 時代の面影(女性の仕草を細かく表現する描写)が感じられる。
・最後の一行で「ローラースケート」という題名を思わせる言葉が登場するが、この時点では、この言葉がシーンの一要素のようにしか感じられない。しかし「土曜日の公園の中」が補われていることによって、「僕」と「女の子」がデートをしている想像をすることが容易になる。

 

 

サビ1

誰(れ)が髪(み)を切って 

いつ別(わ)れを知って

太陽(いよう)の光は降りそそぐ

りとらゆる種類の言葉(こと)を知って

何(に)も言えんてそんなバカなちはしいの!

 ・まず目に入るのは[a]の母音を中心とした韻の刻みだろう。とくに最後の一行に関しては語調に凝った作り方がされている。楽曲全体を通してみても、あからさまな韻表現が多いこともこの曲の特徴だ。
・冒頭から「誰かが」というう主語が提示され、Aメロ1の「女の子」よりも主語自体がより抽象化、普遍化された。しかしAメロ1で登場した「髪」という単語がここでも使われていることから、なんらかの関連があると考えられ、そうなると、やはり「女の子」が「誰か」に当たる人物であると思われる。
・背景が描かれていないことから、このパートの全体像を正確に把握することは難しい。聴き手として個人的に感じるのは、髪を切ることが別れのサインであるというイメージを彷彿とさせ、「太陽の光が降りそそぐ」でこのイメージにベールをかけているということだ。

・最後の一行だが、前文を踏まえた非常に力強いメッセージが表現されているように思える。最後の「さ」からも「僕」視点で踏まえられている言葉だとわかる。「何も言えなくなること」を「過ち」だと捉え、「そんなバカな過ちはしない」と強く否定し決意していることは読み取れる。種類が何を指しているのかはこの時点で明確でない。

Aメロ2

浜辺(まべ)にはローバーの花(な) 白い雪のようにらば

鼻(な)をすすりしゃみをして 犬が空を見上げてる

来た風を帆に受けて走る 青(お)や黄色(いろ)が波(み)にえてく

遠く遠くつながれてる  君や僕の生活

・このパートには、Aメロ1で描かれた「女の子」の描写とは大きく異なり、唐突に浜辺の情景を切り取ったような自然描写が心情と相まって壮大に描かれている。
・「犬が空を見上げてる」には二つの意図を感じる。一つは、浜辺にフォーカスしていた視点を「…空を見上げてる」というフレーズによって空に向けることによって、場面の転換をリアルに演出する工夫がなされているということだ。そしてもう一つは、おそらくアルバムのタイトル「犬は吠えるが、キャラバンは進む(もしくは「dogs」)」を意識して「犬」が表現されていることだ。(ちなみに「おやすみなさい、仔猫ちゃん!」における「南の島で吠えてるよ、ムーンドッグ」も同様の観点だと推測できる)
・「来た風を…消えてく」より、おそらく「僕」が目にしているものは、沖に浮かぶヨットもしくは舟であることがわかる。
・小沢さんは日常から非日常を想起する歌詞を描くことが多く、このパートにおいてもそれが顕著に表現されている。ここでは「浜辺…消えていく」という観察を「遠く…生活」として日常や現実に落とし込んでいる、といえよう。「僕」が物思いにふける姿が想像できる。
・最後の一行に注目すると、まず考えられることは「君」と「僕」が一緒にいないということだ。ここまでの関連からすると、Aメロ1で過去の回想がなされ、サビでなんらかの別れを迎え、Aメロ2の時点で「遠く遠く」離れているという流れが生まれる。
・また「遠く遠くつながれてる 君や僕の生活」というフレーズからは、小沢さんの楽曲テーマの一つともいえる「並行世界」がくみ取れる。

サビ2

誰かが髪を切っていつか別れを知って 太陽の光は降りそそぐ
ありとあらゆる種類の言葉を知って 何も言えなくなるなんてそんなバカなあやまちはしないのさ!

 ・サビ1とまったく同じ歌詞が再登場した。つまりこの三行はこの楽曲の中で特に表現されている強いメッセージだということだろう。
・サビ1と違うポイントを挙げるなら、Aメロとの関連性だ。Aメロ1では「女の子」という主語表現のもと、そのつながりをもってしてサビが描かれていると解釈していたが、Aメロ2には明確な人称は見られない。しかしAメロ1の「女の子」がAメロ2の「君」にあたるのならば、若干の伝わり方の違いに留まるかもしれない。

 

Bメロ1

れでこで君と会うなんて想もできないことだった

神様(ま)がそにいるような時間

 ・サビで描かれていた「別れ」の内容に近づく重要なパート。偶然の再会の様子がシンプルに描かれている。「それで」「ここで」の指すものから想像するに、楽曲の主人公「僕」がいる時間軸はおそらくこのパート(場面)にある。

・さらに考慮しなくてはならないのは、このパートにおいては「僕」は「君」と一緒にいる可能性が高いということだ。(Aメロ2との比較)

・「神様」という単語は小沢さんが好んで使う言葉のひとつだ。ここでは自分は運がいいという意味なのか、はたまた恵まれているという意味なのか?

 

サビ3

誰かが髪を切っていつか別れを知って 太陽の光は降りそそぐ

ありとあらゆる種類の言葉を知って

何も言えなくなるなんてそんなバカなあやまちはしないのさ!

・Bメロ1の議論を仮定すると、現実の時間軸に立ち戻った上で、再び過去の「別れ」の景色を思い描いているということになる。

・三度目の登場にして「ありとあらゆる~しないのさ!」というここまで浮かんでいたフレーズが、Bメロ1の場面(時間軸)における心情だったという見方が濃厚になる。つまりここまでこのフレーズの真意をうまくつかめていなかったのは、作者の意図的な展開であったのか?もしそうだとすれば非常に高等かつ緻密な作詞に間違いない。

 

Bメロ2 

意味んてもう何(に)もんて 僕(く)がばしすぎたジョークさ

神様がそばにいるような時間 続く

・サビにあった「ありとあらゆる~しないのさ!」の流れを踏まえているかのような歌いだし。語調としてはサビの「何も言えなくなるなんて」とも類似している。
・「意味なんて何もない」とはいったい何を指しているのかは不明瞭だが、それは小沢さん本人のみの知るところかと思う。ただそれを「ジョークさ」と歌っていることから、流れ的には、「何も言えなくなる」という一時期おかしてしまった「過ち」を訂正しようとしている、撤回する、もっと言えばごまかそうとしている、ということなのだと読み取れる。
 ・「~時間つづく」によって、疑いなくBメロが僕現在の時間軸であることが証明されている。

 

サビ4

誰(れ)くびをしていつか眠る時も 満月はずっとずっと照らしてる

通(とお)りを渡る人波の中 シンコペーションつけたクリスマスソング

 ・パート的には大サビのお膳立てする役割を果たしている。
・初めてサビの内容が変化した。しかし「誰か」「いつか」という言葉や語調がいままでのサビと対応して組まれていることがわかる。
・サビ4とこれまでのサビは対応しながらも対照的に表現されている。顕著なのは「満月」と「太陽」という昼夜の逆転。また、ここまでの夏季イメージ(Aメロ1参照)がサビ4の「クリスマスソング」によって冬景色へと一変した。

・「シンコペーション」とは音楽用語で、リズムに強弱をつけてメロディーに独特な変化を加えることを指す。クリスマスの真っただ中にいる「僕」一人の姿が想像できる。

 

大サビ(サビ5)

誰かが髪を切っていつか別れを知って 太陽の光は降りそそぐ

ありとあらゆる種類の言葉を知って

何も言えなくなるなんてそんなバカなあやまちはしないのさ!

 ・小沢さんの楽曲の中でも、同じ内容のサビをこのように何度も繰り返すことはかなり珍しい。それほどにこのサビに込められたメッセージには大きいものがあるのだろう。

 

おわりに

 

ここまで「ローラースケートパーク」という楽曲をみてきたが、この作業を通して筆者が感じたことは、使用されるワードやフレーズが極めて厳選されており、音のゆとりが贅沢であるということだ。ここまでメロディーと言葉一つ一つの響きを美しく調和させて表現している楽曲は存在するだろうか? 
まさに芸術作品のような楽曲を小沢健二は作り上げてしまったのだ。
 個人的には難解な歌詞内容を楽しむといいうよりも、そのメロディーや詩から素直に想像できる風景やセンスを楽しむことをお勧めしたい気持ちになった。小沢健二さん初期の楽曲の中では、かなり特殊な部類に含まれるこの楽曲だが、まさに隠れた名曲というにふさわしい作品であると思った。

 

後記(執筆にあたっての感想)

 

「ローラースケートパーク」は僕自身が小沢健二さんにドはまりするきっかけになった楽曲で、かなり強い思い入れのある作品でした。確か小学四年生くらいの時、車の中でかかったあの瞬間から、すっと曲の世界に引き込まれた記憶を今も覚えています。
もし小沢健二さんのファンの方で「ローラースケートパーク」を聴いたことがない方がいらっしゃったら、ぜひ聴いてほしいです! そしてぜひ普段耳にする楽曲とは一味違う特異な世界観を体験してほしいです。
小沢健二さんの楽曲の中では「ある光」が隠れた名曲としてもはや名高いですが、僕個人としては「ローラースケートパーク」こそ真の「隠れた名曲」と呼ぶにふさわしいと感じています!

読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

  

 

 

 

高い塔とStardust

 

はじめに

高い塔とStardust」は2019年11月にリリースされたアルバム「So Kakkoii 宇宙」に収録される現時点での最新曲の一つに数えられる楽曲だ。この楽曲の特徴は、小沢健二さんのソロデビュー当時の印象が受け継がれつつ、近年の新たなエッセンスが融合した、その味わい深さにあると感じている。全体的には他の楽曲との関連が非常に多く見られ、また大胆な対比や並列が用いられている箇所が非常に多く、その一方で「高い塔とStardust」というタイトルが歌詞のストーリーの軸としてはっきりと表現されている作品だ。(近年の小沢さんの楽曲の一つともいえる)

 

Aメロ1

その光線は 天井へ昇る 幻

その色彩は 昭和平成をこえて

り透明(うめい)な 響きを

 ・このパートは終始「高い塔」についての描写が描かれている。連体詞「その」で二つの側面を並列させている。

・「高い塔」とは何を指すのか? おそらくそれは「東京スカイツリー」か「東京タワー」に絞られるわけだが「昭和平成をこえて」というフレーズと、過去の引用(僕らが旅に出る理由、ドアをノックするのは誰だ?など)から推測するに「高い塔」とは「東京タワー」だと考えるのが妥当だ。

・高い塔が「東京タワー」だとすると「光線」とはタワーがライトアップされる様を表現しているようで、夜空に照らし出される東京タワーの描写が描かれていることがわかる。

・最後の一行については「透明」「放つ」といった近年の楽曲で多用される表現を駆使しつつ、東京タワーの年月を経た変化の模様を描いていると思われる。

 

サビ1①

東京(うきょう)の街孤独を捧げている

高い塔の一つ

れは 直線的な曼荼羅

僕(く)らののあり方 映す

神殿のようだよ 

 ・Aメロ1と同様に「高い塔」を中心にストーリーが展開しており、パート全体としてここまで直接的なつながりがある歌詞は小沢さんにとって珍しい。

・一行目はまさに現在の小沢さんにとっての「東京タワー」の見え方が色濃くかつシンプルに表現された文章だ。東京タワーに「孤独」の二文字を当てたことは彼の変遷からとらえても非常に興味深い。

・三行目から「高い塔」への触発が描かれているが、東京タワーの外見から想起される豊かな感性とそれを伝える非常に素直でストレートなフレーズで彩られている。

 

サビ1②

代の未来図は姿を変え続ける

どもたちを叫ばせる

Woo-hoo-woo-woo

 ・一行目が表していることは、いままでの小沢さんの歌詞や発言を基にするば、それは「変化の肯定」。考え方、捉え方が塗り替わっていくことを肯定するような発言が近年多く見られることにも関連させると、この文章自体がその思想を一貫して体現しているといえるだろう。

・「子どもたち」という単語は近年の小沢さんを見る上で主要なキーワードの一つだ。そしてこれは年輪を重ねた小沢さん本人の考え方の大きな変化であることは明らかである。

・「叫ばせる」対象が何かははっきりしていない。しかしその叫び声のようなものは「 Woo-hoo-woo-woo」という形で表現されている。叫び声が狼の遠吠えのようであることや「光線」「孤独」などのある程度状態を示す単語もすでに登場していることから、「叫ばせる」対象はわからなくとも、その情景は安易に想像できるように思える。

 

Aメロ2

ねずみ小僧が

住んでいたという橋のあたり

上方(みがた) みちのく

海峡いきょう)をこえ

聡明な 列島は続

 ・Aメロ1では題名でもある「高い塔」について言及されていたが、このパートでは一転、これまで語られてきた「高い塔」に関する記述が一切なくなった。代わりによりスケールの大きな「列島」という世界観が表現されている。
 ・「ねずみ小僧…橋」とは、リサーチによると「日本橋」だと推測できる。
・このAメロの全体像からは、東京から放射線状に広がっていく日本列島が想像できる。
・これまでの言葉を数えても「聡明」というのが小沢さん自身の日本への印象を物語っている。

 

Aメロ3

 

それでは に言わずに

いられないのだ

小さな箸

全宇宙をとりわける

凄絶な美しさ

 ・「それで」とはAメロ2のことを踏まえてのことだろう。過去の楽曲(痛快ウキウキ通りなど)でも使われる特徴的なフレーズともいえる。前述をひっくるめる、まるめこむようなニュアンスの使われ方をしている、と考えている。
・「君」が誰を指しているのか? 文脈を追っていけば、「君」を拡大解釈した場合の「子どもたち」に、もしくは小沢さん自身のお子さんに語り掛けた一節とも考えられる。

・「小さな…美しさを」は「僕は言わずにいられないのだ」の内容にあたる。
・「小さな箸」で「箸」が何にあたるのかはわからないが、限りなく日本らしさを表現しようとしている姿勢が見られる。
・「全宇宙をとりわける」という表現は感性が優先するフレーズだとみている。「宇宙」という単語は近年の小沢さんの楽曲ではすっかりおなじみとも言える。
・おそらく過去に「凄絶(せいぜつ)」を越えるような上位互換は登場したことがない。つまり「美しさ」の表現を最大限に引き出そうと意図しているのだろう。

 

サビ2①

東京の街に孤独を捧げている

高い塔の一つ

それは 抽象的な曼荼羅

僕らの感性のあり方 映す

神殿のようだよ

 ・サビ1との比較をすると興味深い。まずサビ1①では「直線的」「魂」であったフレーズが、ここでは「抽象的」「感性」と変化している。一つには、単にサビ1との変化をつけるために、音調の似たフレーズに入れ替えたという可能性も考えられる(実際に韻も意図的に整えられている)。しかし意味見解につなげるなら「直線的」のほうが東京タワー(高い塔)の見え方により近いはずだ。しかしあえてその見え方の具体を抽象へと、そして魂を感性へと変化させることで、高い塔の見せ方を工夫してきたのだと私は考える。

 

 サビ2② 

 

古代(だい)の未来図は姿を変え続ける

大人(とな)たちを燃えさせる

 ・サビ1②との変化が気になるパートであり、最も興味深いのは「子どもたち」と「大人たち」が比較的に用いられている点だ。具体的に言えば「子どもたち」は「叫ばせる」だったのに対し、「大人たち」は「燃えさせる」と違う行動をとらせている。またサビ1②にあった「Woo-hoo-woo-woo」が叫び声であったことはこれではっきりする。

 

間奏

鳳凰が優雅(うが)にらすが土(ち)に

月に 島に 花に 草に

獣たちが吼える

門(ど)に 社(しろ)に 屋根に

路地に 家の隅に

太陽が優雅(うが)にらすが雪(き)に

霧(り)に 虹(じ)に 雨雲に

獣たちがやどる

字に 様に 体に 記憶に

・見方としては①「鳳凰~家の隅に」と②「太陽~記憶に」の二つの内容が存在していることがわかる。
・①と②で共通点として特に注目すべきは「波」と「水」(どちらも最近の楽曲で多用されるキーワード)が敷衍していく様子が描かれている点と、また前半では超自然へ、後半ではより身近な世界へと順序だてて描かれている点だろう。
・①に言及すると、「吼える」はこの後の歌詞に「吼えさせる」があると考えられ、それは同時に「獣たち」が「人間」を表現している可能性を示唆する。後半は「門」や「社」など日本らしさが出ていて現在のエッセンスが加味されているといえる。
・②に言及すると、後半の敷衍に関しては「やどる」から、よりこの楽曲らしいテイスト(「古代の未来図」など)に描かれている印象を受ける。

 

サビ3①

きることはつの月日も難しくて

複雑(くざつ)で 可解で

君(み)の中でえた炎(のお)とか

僕が失くしてしまったのとか

全部 答えがないけど

 ・サビ1、サビ2では「高い塔」に関する言及が描かれていたが、サビ3では内容が展開され、人の芯に迫るような内容が描かれている。特に「全部 答えがないけど」とストレートに伝えたい趣旨を歌詞に表現するのは珍しい。
・「君の中で消えた炎」における「炎」は、サビ2②の「大人たちを燃えさせる」と関連があると考えられ、また2000年代の楽曲「時間軸を曲げて」の「少女のように指に炎を灯せたら」などでも用いられるように、ここでの炎は「熱情」(「ある光」より引用)に近い意味が想像できる。

 

サビ3②

古代の未来図は姿を変え続ける

大胆に 勇敢に

空に満月かかるように

ドキドキする 神秘と行くよ

0から無限大のほうへ

 
・小沢さんの歌詞の主題の一つ「生命の肯定」の代名詞ともいえるパートだ。ここまで描かれてきた「高い塔」が「時代変化」の象徴から、「神秘」の象徴へと変化をとげた。「古代の未来図は姿を変え続ける」は変化を肯定するより力強いメッセージとなった。
・「大胆に 勇敢に」から楽曲の印象がパッと明るくなり、高揚を抱かせる展開へ。
・「0から無限大のほうへ」は同アルバムに収録されている「神秘的」の「恒河沙永劫無限不可思議を超える」を想起させるような印象を受けた。「神秘」という単語も使われていることから、アルバム全体のテーマにより近いメッセージだといえる。

 

サビ3③

Stardust 落ちてくる 森に海に橋に

子どもたちを吼えさせる

Woo-hoo-woo-woo

・この楽曲の題名でもある「Stardust」がここで初めて登場。「Stardust」は直訳すると「星屑」であり、その発想は同アルバムに収録されている「流動体について」「彗星」にも似たような情景描写が表現されている。

・「子どもたちを吼えさせる」はサビ1②の「~叫ばせる」から変化。間奏で「吼える」が登場したことと関連する可能性が高い。

 

サビ4①(大サビ)

七色の橋から飛び立つ

カラスのように

大胆に 勇敢に

冬の大波うねる時も

ドキドキする 神秘と行こう

0から無限大のほうへ

・場面から推察するに「七色の橋」はレインボーブリッジである可能性が高い。また「カラス」と「七色の橋」の色の対比も意図的に表現されている。
・今までサビで何かしら描かれていた「高い塔」に関する内容がサビ4では描かれていない(終わりまで)。そして高揚感を伴った「0から無限大のほうへ」のフレーズがよりそのメッセージ性を強めている印象を受けた。
・今更だが、この楽曲で描かれている季節は「冬」であることに間違いないようだ。

 

サビ4②

Stardust 落ちてくる

森に海に橋に 掌の上に

川に光線反射するように

ドキドキする

神秘がかかる瞬間は

強で 高で

・「掌の上に」によってここまで語られてきた景色がぐっと身近に感じることができる。ある意味抽象の具体化ともいえる。
 ・「川に光線反射するように」と「空に満月かかるように」は違う表現を使って類似した情景を例えていることがわかる。「光線」という言葉はAメロ1の冒頭でも登場したが、ここでは月の明かりと捉えることが妥当だと考える。
・「神秘がかかる」とは「Stardust」が落ちる様を表現しているようにみえる。それを「凄絶な」とも似た「最強で 最高で」というフレーズを使って最大級に掲揚している。

 

サビ4③

Stardust 落ちてくる

森に海に橋に

大人たちを吼えさせる

Woo-hoo-woo-woo

 ・大人たちを「燃えさせる」から「吼えさせる」に変化。吠える声も「Woo~」と堅実に表現されている。
・「Stardust 落ちてくる 森に海に橋に」というフレーズが楽曲を通じて三回も描かれることとなった。それほど印象的なシーンとして表現され、楽曲後半の軸となったことは確かだろう。

 

 おわりに

 

「高い塔とStardust」という楽曲は、構成の面では前半に「高い塔」、後半に「Stardust」が楽曲の軸として描かれている様に気づくことができる(どちらもアルバムのテーマに寄り添った内容ではある)。また表現の面では並列を多用した斬新な間奏、小沢さんのタイムリーな心情を炸裂させる強烈な歌詞表現、抽象と具体を組み合わせた巧みな描写などがかなり印象的だった。
そして何よりこの楽曲から感じたのは、小沢健二さんから見える世界観の「いままで」と「今」だ。1990年代、2000年代の要素を醸しながら2010年代、つまり「今」を前のめりに思えるほど独自に表現しようとする姿勢、まさに熱情がもろに表現された素晴らしい作品であった。(完)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カウボーイ疾走

はじめに

「カウボーイ疾走」は、1993年9月にリリースされた小沢健二さんのファーストアルバム犬は吠えるがキャラバンは進むに収録されている楽曲だ。このアルバムの曲は、次に発売される「LIFE」のポップよりなイメージとは異なり、どこか落ち着ちついた曲調に、現実感が顕著に表現されているのが特徴で、中でもこの「カウボーイ疾走」はその雰囲気を象徴する作品の一つである。また面白いことに、全く同じメロディーだが全く異なる歌詞で書かれた「サタデーナイトフィーバー」という楽曲も存在しており、それぞれに色を出している。

どこか少年らしい描写と色彩豊かな歌詞。また随所にみられる難解な言い回しと移り変わる風景。何より、この楽曲の軸ともいえる「カウボーイ」が小沢さん本人もしくは楽曲の主人公にとっていったい何者であり、何を体現しているのか、が非常に興味深い。フリッパーズギター解散後、初期の小沢健二を読み解く上で抑えておくべき楽曲とも言える。

 (歌詞全体)小沢健二 カウボーイ疾走 歌詞 - 歌ネット

 

カウボーイ疾走↓

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(参考)サタデーナイトフィーバー↓

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本論

Aメロ1

もう紫陽花(じさい)の風景 もう丘を歩く彼女の姿

飛ばされていっちまった

もう間違(ちが)いがないこと もう隙を見せないやりとりには

嫌気がさしちまった

・二番以降が存在しないとも言えないが、Aメロとして考えられるのはこのパートのみ。

・このパートの歌詞の構造が前半と後半に大きく分かれていることは明白だ。私がとらえるに前半には過去が、後半には現在が表されている。
まず前半において表現されているのはシーンであり「飛ばされていっちまった」からは記憶が過ぎ去っていく様子が伝わってくる。一方の後半では対照的に、現状を取り巻く正直でない人間関係に苦悩する姿が表現されている。
・ここでは「カウボーイ」も登場せず、描写を取り上げることも難しいことから、単純に当時の小沢健二さん自身が投影された個所ではないか、とこの時点では考えている。

 

サビ1

カウボーイ『スペードのエース』とか言って

BABY  BABY  BABY  BABY  BABY

草笛(さぶえ)がひどく上手(ま)い奴(やだった

錠剤(じょうざい)を噛みしめ蛇口(じゃぐち)をひねり 高く高く星を見上げていた

 One two three

・ 題名でもある「カウボーイ」がここで初登場。さらにこのパートはカウボーイに関する情報だけでほぼ独占されている

・パート全体の印象としては、大人っぽいクールなメロディーであるが、どこか少年らしさを含んでおり、またどこかぶっきらぼうな言葉遣いも気になるところだ。

 ・カウボーイが不自然に話す「スペードのエース」とは何か言及してみる。するとトランプにおける「スペード1」とは死や切り札、運命など特徴的な意味を含んだカードであるらしい。明確なカードの解釈はできないが、カウボーイ自身がスぺ―ドのエースのような存在であるとも考えられる。また「草笛」というのも西部劇で想像するようなカウボーイっぽい特徴だ。

・最後の一節では、カウボーイが錠剤を噛みしめるというシーンが登場するが、このことからはっきりすることは、このカウボーイは、西部開拓時代の人物ではなく、現代版のカウボーイであるということだ。またカウボーイが何らかの持病を抱えていたのではないか、という可能性も考えられる。

・カウボーイに密着した描写が描かれていることから、カウボーイが語り手に誰かであったことに間違いないだろう。

・演出においては「高く高く星を見上げていた」という表現によって、時間軸がカウボーイから離れていく、つまりカウボーイがいた「あの頃」から時間軸が現在へ滑らかに移行させる効果を出ている。

・カウボーイは楽曲の主人公というわけではなく、あくまで語り手の記憶に残る過去の人物だと捉えるのが妥当だろう。

 

Bメロ1

がならされてゆき が覆(おお)う広告(く)

から撫でる風(ぜ)に らけっまった純情じゅんじょう)を帰(かえ)し

本当(んとう)のことへと動きつづけては 戸惑(まど)うだけの人たちを笑う

・Bメロと断定するには正直決め手に欠けるが、曲調のパターンと歌詞との関連で、ここではこのパートをBメロと考えるのがわかりやすいと判断した。

・このパートは非常に難解な言い回しが使われている。詳細に読むと、一文目は「熱」が散らばっていくイメージに加え、どことなくカウボーイが活躍した西部劇の舞台が表現されているような雰囲気がある。二文目には「誰が純情を帰すのか?」、そして「…戸惑う人たちを笑う、のは誰なのか?」と解釈が難しい箇所が存在する。

・締めでもある三文目では「本当のこと」と核心をつくようなフレーズが唐突に用いられており、この曲の本質を提示しているようにも思える。(後に繰り返されることからも)

 

サビ2

舗道(ほどう)まで散らばって戻(もど)らない砂

BABY  BABY BABY BABY BABY

淋(び)しげにきなられているギター

新(たら)しい1日がた始(じ)まるだろう 明け前の弱(わ)すぎる光

One two three

・サビ1と比較すると構成とメッセージの性格が異なることがわかる。まずサビ1は「カウボーイ」に沿って展開されていたのに対し、サビ2では抽象的なシーンが選択され、かつ1、2文目は対表現であるように思える。
1文目の解釈は難しいが、対となる2文目にから「淋しげ」な雰囲気は想像できる。そして3文目では「新しい1日がまた始まるだろう」という締めくくりが提示され、「夜明け前」から朝の到来を印象的に描いていることがわかる。

 

Bメロ2

日射しが強い真昼 ばたきをすめとり

陽炎(げろう)の中(か)につ えてっまうものを探して

本当のことへと動きつづけては 戸惑うだけの人たちを笑う

・ Bメロ1と関連付けるなら、意味の構成や場の設定、続く「暑さ」が表現されている点が類似している。

・「陽炎」とは空気中に立ち上る揺らめきの現象であり、「日射しが強い」という条件がまさにそれと一致している。
・Bメロ1でも繰り返されていた最後の一文は、つまり楽曲全体のキーワードにあたるものだと考えたい。読み解いていくと、この1文の主語は、おそらく「カーボーイ」であり、小沢さん、もしくはこの曲の主人公は「カーボーイ」が「本当のことへ動く続けている人物」と解釈していることがわかる。

 

サビ3

すれちがう早(や)起きのラソンンナー

BABY  BABY BABY BABY BABY

にぎやかな時代に落ちてくる朝

新しい1日がまた始まるだろう 夜明け前の弱すぎる光

・サビ2と似た構成の特徴を持っていることがわかり、曲全体の締めに移っている様子が印象的だ。
・「早起きのマラソンランナー」や「…朝」など舞台は、真昼から朝に時間軸が映っていることがわかる。

・「にぎやかな時代」という表現はおそらく小沢さんが考える当時の世間であり、朝の始まりを待望する思いを印象的に描いたものだろう。

・最後のパートにもかかわらず「カウボーイ」に触れていないようだ。これはAメロともどこか似ていて、「カウボーイ」の現れを曲の中に閉じ込めた作品になっているように思える。つまり、語り手は「カウボーイ」を通じて自分自身に迫っていたのだと考えた。

おわりに

「カウボーイ疾走」における「疾走」の要素を見つけることは難しかった。どちらかというとカウボーイの「失踪」と語り手の人生の「疾走」が全体として描かれている印象を受けた。また語り手の心情から見えるのは「カウボーイ」への憧れだ。主人公がカウボーイの面影に思いをはせながら前向きに現状を受け入れようとする思いを感じた。

汲み取りきれない箇所やフレーズがいくつか存在していて未だ謎は多いが、一つ言えることは当時の小沢健二がある意味(心情描写が少ない点も踏まえて)自身の素直な気持ちを投影している楽曲だといえるだろう。
今後も「カウボーイ疾走」に関する新たな発見があれば、更新を続けていきたい。

 

 

 

 

 

おやすみなさい、仔猫ちゃん!

 はじめに

 

おやすみなさい、仔猫ちゃん!」は1994年にリリースされた「LIFE」の8曲目に収録されている曲だが、シングルカットがされていないことから、小沢さんの楽曲としては少しマイナーな部類に含まれるだろう。英題「GOOD NIGHT, GIRL!」からも分かるように題名の「仔猫ちゃん」とは明確に好意のある女性を差しているもので、やはり恋愛色の強い作品に思える。

 曲の長さも7分57秒と長めで、ゆったりとして緩やかな濃淡のあるメロディーが特徴だ。一方で歌詞から読み取れる情報量の多さと「雨」というキーワードの展開の仕方も特徴的だ。そうして、やはりこの楽曲も具体と抽象を組み合わせながら、壮大なテーマを描こうとしている。

そして、歌詞を読み解いていきながら「おやすみなさい、仔猫ちゃん!」という題名に隠されたメッセージを探していきたい。

 

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本論

Aメロ1

んな待ってた雨が つか降り出して

君(み)と会ってた時間 僕は思い出してた

 まず、二行の文を同じフレーズを使ってうまく呼応させていることは明らかである。それにしても同じフレーズで音を合わせるやり方は小沢さんにしては珍しい。

「みんな」とは不特定多数を差しているようで、久しぶりに雨が降ったというところだろう。さらに「いつか」とはここでは「いつの間にか」を意味していることが分かる。
全体の意味としては「僕」が「君」との記憶を「雨」から想起する場面のように感じられる。大きく考えれば、前回紹介した「愛し愛されて生きるのさ」の冒頭にも実によく似ている。また「君と会ってた時間」に助詞がないことも指摘しておきたい。付属する助詞が「を」なのか「に」なのか、今後の展開によって見方が変わってくるかもしれない。

 

Bメロ1

空へ高く少し欠けた月 

草の上に真珠みたいな雨粒

ほんのちょっと残ってるそんな時だった!

 まず、そもそもこのパートはBメロに分類されるのか、それともサビに分類されるのか微妙なところであった。曲調の転換と一般的な邦楽の構成的には「Bメロ」だが、そもそもこのパートがサビっぽいリズムの明るさであることや、この次のサビとの間隔の狭さや、小沢さんが好む洋楽的な楽曲の構成(Aメロ→サビという流れ)から推測するに「サビ」だと捉えることも妥当だとも思える。今回は、楽曲の説明のしやすさを考慮してこのパートを「Bメロ」に置くことにした。

 「空へ」「高く」「少し」「欠けた」という4つもの修飾語が「月」という主語に添えられており、また小沢さんらしくなく母音で韻が踏まれていない。その代わりに形容詞の文字数(3文字の列挙)で語調を整えたように推測できる。

そしてこのパートで表現されているのは紛れもなくシーン(情景)である。「雨粒」が「ほんのちょっと残ってる」というフレーズから、おそらく舞台は雨上がりであり、つまり雨が降り出したAメロ1の続きである可能性が高い。そして月明かり照らされた雨粒が真珠のように草の上に重なって写る光景に、主人公が最後の「!」から読み取れるように「興奮」の感情を抱いていることが考えつく。

さらに、実はAメロ1の「君と会ってた時間」がこのパートの「そんな時だった」の「そんな」に対応することがわかる。「君と会ってた時間」つまりはシーンを細かく再現している場面といえる。

 

サビ1

ディズニー映画のエンディングみたいな
甘(ま)いコンチェルトを奏(な)でて
静かにづくお天気雨(め)

「みたいな」「ような」に代表される砕けた比喩表現は小沢さんの楽曲全体における特徴だ。コンチェルト(協奏曲)とは、ソロの独奏楽器とオーケストラとが組み合わさって生まれるクラシック音楽を意味する。つまり雨音の共鳴を、ディズニー映画のエンディングになぞらえて酔いしれている主人公の様子が見て取れる。詳細な描かれ方から、小沢さん本人のシーンに対する印象が色濃く表現されているパートだ。

また「静かに降りつづく雨」がBメロで展開させた過去の記憶から、再び現在の時間軸へと立ち戻ってくる流れが読み取れ、Aメロ1からの続きを匂わせる内容となっている。曲調を活かして「お天気」の「お」も歌詞の雰囲気を和らげるのに重要なエッセンスとなっている。

 

Aメロ2

生まれたてのが 羽根をひろげ飛び立つ

っそり僕(く)が見てた 不思議物語(ものたり)

このパートから二番がスタートする。一番とは視点が変わり、主語として「蝶」が登場し「雨」のテーマから少し遠くなった印象を抱く。しかし「僕」という人称がはっきり残っていることから、主人公のワンシーンを詳細になぞる姿が想像できる。

Bメロ2

空へ高く虹がかかるように 

暖(あたた)かな午後の日射しを浴びて飛べ
それはとても素敵なシーンだった!

ここでは、Bメロ1をなぞって三音の言葉で語調を整えている様子がわかる。また二行目では語調を意識した単語を組み合わせるというやり方も見せている。
 内容については、主語はおそらくAメロ2と同様「蝶」だと確定でき、このパートはその蝶が飛び立つ神秘的な姿を鼓舞するシーンを描いたものだと思われる。Bメロ2では「暖かな午後」「虹」から読み取るに「午後の晴れ空」が表現されており、Bメロ1での「夜空」とは対照的な景色が描かれている点も面白い。しかし1番で「そんな時」がここで「素敵なシーン」と言い換えられており、Bメロが「素敵」というイメージを継承しているのだろうと推測する。

さらに一番と同様、Bメロ2がAメロ2の内容、ここでは「不思議な物語」と「それはとても素敵なシーンだった!」が対応関係にあり、内容を逆から読ませるという聴いただけでは、理解が難しいような構造になっている。この歌詞構成は小沢さんの楽曲の中でも珍しい部類に含まれるだろう。

 

サビ2

ディズニー映画のエンディングみたいな
甘いコンチェルトを奏でて
静かに降りつづくお天気雨
Come on!

サビ1と同じ歌詞が繰り返されていることから、原点を現在の時間軸を固定していることがはっきりわかった。つまり歌詞の中では主人公の現在から始まり、過去を想起し、再び現在に戻ってくるというパターンが示されているともいえる。
 ここまでを踏まえて考えれば、二番で「蝶」の不思議な物語に傾いた歌詞世界の流れを、再び本テーマである「雨」のイメージへと戻してきた印象を受けなくもない。それならば、なぜ「蝶」のくだりがこの楽曲には必要だったのか、考える余地もある。単純に対照的な内容を盛り込みたかったのか、それともどこかの伏線なのか、少なくともこの時点では不明瞭である。
 また末の「come on!」は次のメロディーへ弾みをつけている役割をしているようだ。

 

間奏

“Where do we go? 

Where do we go, hey now?”
涙のつぶのひとつひとつ

まず初めに、冒頭からの「Where do we go?」に言及してみよう。「hey now」と合わせて直訳すると「私たちはこれからどこへ行くのか?」という意味の単純な疑問文になる。そして私がこの歌詞から感じ取るのは、小沢さん本人が描く将来への漠然とした不安だ。(「愛し愛されて生きるのさ後編でも言及した内容に似ている)しかしながら、この「Where do we go?」は全て幼い子供たちのコーラスによってチカチカと歌われており、まったくマイナーな印象を受けないこれこそがこの楽曲の隠れたメッセージであり、当時の小沢さんの本音であるのだと私は解釈する。また補足すると、この疑問文はここからおよそ25回も登場することとなる。

三行目の内容をみると、「涙のつぶ」はテーマの「雨」と関連する情報だと読み取ることができ、この一行はここまでの内容とかなりリンクしているようにも思える。

 

Where do we go? 

Where do we go, hey now?”

ラス玉(ま)にとけてく夕べ

ここでは、「雨」「涙のつぶ」をさらに「ガラス玉」と言い換えたように考えられる。また「夕べ」という時間的情報が加えられたことにより、色濃くシーンが強調された。

 

Where do we go? 

Where do we go, hey now?”

書きかけのメロディー goes”tru…

最後の「goes”tru…」は「Where do we go?」という問いに対して答えようとしているかなり興味深い箇所だ。「書きかけ」というフレーズと合わせて、進路を描こうとしているが、ペンが進まない、考えが進まないという当時の小沢さん本人が抱えるリアルな胸の内のつっかかりを感じる。このようにかなり重要な展開が、何の言及もされずに歌詞の中に紛れている点から、これも小沢さんが楽曲の中に隠したメッセージなのかも知れない。

 

Where do we go? 

Where do we go, hey now?”

わることのないルゴール

この「終わることのないオルゴール」は単純に「永遠」「輪廻」を表現している一節に思える。様々な解釈が可能なため、あえて他と関連づけることを避ける。

 

Where do we go? 

Where do we go, hey now?”

ひそかにささやい天使んし)

 私は「Where do we go?」を歌う子供たちを、この「天使」になぞらえているのではないか、と考える。「Where do we go?」を「密かにささやかれている」と解釈することができなくもない。しかし実際「天使」が一体どのような存在で、何のために登場したのかはこの時点では言及できていない。

 

Where do we go? 

Where do we go, hey now?”

南(なみ)の島(ま)で吠えてるよムーン・ドッグ

 そもそも「ムーン・ドック」とは何なのか、がはっきりしない。この言葉を引いてみると、実際に過去の有名なアメリカ人作曲家の名前として登場するが、「吠えてる」から想像するに、ムーンドックを単純に月に向かって吼える「犬」だと考えられる説が強い。しかし人物である「ムーンドック」を犬のイメージと混同させて描いた可能性も十分考えられる。また「南の島」というのがかなり厄介で、ワンシーンとして捉えることしかできていない。

Where do we go? 

Where do we go, hey now?”

もともきいな世界(かい)

 「きれいな」は、やはり「雨」のイメージ対応するものだと解釈すれば、雨降りの神秘的な世界を肯定するとても抱擁感のあるフレーズだと感じる。

Where do we go? 

Where do we go, hey now?”

つづくお喋り

 間奏の最後を占めるこのパートでは、急に「君」が登場し、一気に「僕」の現実感へ引き込まれる。さらに興味深い点は、サビの「静かに降りつづくお天気雨」と「つづく」と「お○○」が明確に対応を見せているということだ。掛け合わせという意味でもお洒落だが、現在の時間軸では「僕」は「君」と一緒にはいないわけで、ここで綴られている内容は、雨の降り「つづく」関連で主人公が過去もしくは妄想を思い浮かべているということが推測できる。

 

Bメロ3→サビ3

空へ高く少し欠けた月 

草の上に真珠みたいな雨粒
ほんのちょっと残ってるそんな時だった! WHO!

ディズニー映画のエンディングみたいな
甘いコンチェルトを奏でて
静かに降りつづくお天気雨

 再びBメロ1の内容を繰り返したことから、時間軸を現実に引き戻し、曲のクライマックスへ向けて楽曲のテーマを確認する役割をになっているパートであるという見方ができる。

 

大サビ

夏の嵐にも冬の寒い夜
そっと明かりを消して眠ろう
たすぐに朝がきっと来るからね

最後のサビで話が大きく展開された。ここまで守ってきた「雨」のテーマがフェードアウトして全く初めてのストーリーが登場したのである。そしてついに、この曲の題名である「おやすみなさい、仔猫ちゃん!」が連想される「眠ろう」というフレーズも登場した。「夏の嵐」「冬の寒い夜」という要するに「どんな時も!」という主人公の盛り上がる思いが、その次の「そっと」という落ち着いたフレーズで冷やされて味わい深い一節となっている。「…ね」と投げかけている相手は、おそらく「君」であり「仔猫ちゃん」なのだろう。

 

アウトロ

Where do we go?
Where do we go, hey now?
涙のつぶのひとつひとつ

Where do we go? 

Where do we go, hey now?”

ガラス玉にとけてく夕べ

Where do we go? 

Where do we go, hey now?”

僕の書きかけのメロディー goes”tru…”

Where do we go? 

Where do we go, hey now?”

終わることのないオルゴール

Where do we go? 

Where do we go, hey now?”

に届けるのさもうすぐ 

間奏の半分がそのまま繰り返され、最後に「君に届けるのさもうすぐ」で楽曲が締めくくられる形となった。ここでの疑問は「『君』に対していったい何を届けるのか?」であり、私の見解では「おやすみなさい」が当てはまると考えている。根拠としては、ここまで題名に関連したパートが一つしか存在しておらず、あえて暗示的に楽曲に盛り込もうと考えるなら、最後にその意味合いを持たせることが妥当だといえるからだ。こう解釈すれば、楽曲の終わり方は非常に的を射た表現となったといえる。

 

おわりに

 「おやすみなさい、仔猫ちゃん!」は、落ち着いたメロディーとは裏腹に、身近なワンシーンから様々なことを想起、発展させていく小沢さんらしいスタイルの楽曲ではあったが、歌詞に散りばめられたエッセンスが多く、伏線が回収しきれないほど難解であった。また題名「おやすみなさい、仔猫ちゃん!」の要素の明らかな少なさが、かえって題名に縛られない小沢さんらしさの体現になっていたのかもしれない。小沢さんが自らを投影している箇所も散りばめられていて興味深かった。改めて、この楽曲は非常に歌詞の情景と感情のリンクにこだわった素晴らしい作品であった。

 大都督

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愛し愛されて生きるのさ 後編

 

愛し愛されて生きるのさ↓

https://www.youtube.com/watch?v=j8Mz8iEJDSA&feature=emb_logo

 

間奏ー語り

家族(ぞく)や友人と 並木道みきみち)を歩(る)くように がり角をがるように

僕らは何処へ行くのだろうかと 何度も口に出してみたり

熱心に考え 深夜に恋人のことを思って

誰かのために祈るよう そん気にもるのかんて考えたりするけど“

 この曲の大きな特徴の一つであり「ある光」「アルペジオ」でもお馴染みの、間奏の語り。緻密な韻踏みを含んだ語りには、小沢さんの歌詞に対する責任感を感じる。

始めに注目したいのは直喩法「~ような」。小沢さんは自身の楽曲の中で、この「~ような」という比喩表現を独自にアレンジし多用することで自身の感性、世界観を色濃く演出する特徴を持っている。全楽曲を通じてかなり重要なフレーズだ。

次に注目したいのが並列語尾「~たり」。文法上「~たり」は計二回繰り返され並列な関係を表現するが、歌詞を詳しく見ていくと「家族や…出してみたり」と「僕らは…なんて考えたり」の二つの並列な内容になっていることが明確にわかる。

それでは分解してみていこう。
並列の一つ目が表している内容は、推測するに人生そのものについてだと思われる。想像になるが「並木道」が人生の道筋だとすれば「曲がり角」は人生の分岐点というところだろう。「僕らは何処へ行くのだろうか?」人生にそんな問いかけをしてしまうように切実で不透明な胸の内が描かれている。(いわゆるマクロな視点)
 並列の二つ目は、「恋人」という新しい主語が登場し、内容がより具体的となった。非常に興味深いのは、やはりこの「恋人」も「誰か」の中の一人にすぎないという描かれ方だ。おそらく家族や友人たちも「誰か」の一人一人ということなんだろう。「誰かのために祈る」という言葉からも宗教観が感じとれなくもない。アルバム「LIFE」の大きなテーマが「生命の肯定」といわれる所以は、この澄んだ隣人愛にあると思われる。

 最後の「けど」は文章が続くというよりも、言葉を言い捨てる、吐くのようなイメージが適切だと思われる。やはりこの二つの並列の内容を漠然に胸に抱いている状態を表現しているのだろう。

 

サビ3

10(じゅう)年前僕らは胸を痛めて「としのエリー」なんていてた

ぞろいな心はまだ今でも僕らをるせなく悩(や)ませるの

 楽曲の世界観を決定づける重要な情報が表されたパートであり、世代が歌われているような印象を受ける。「10年前」はおそらくサビ2の「10代」と一致させる意図があったものだろう。つまりここで描かれる主人公は20代であることが明確にわかり、また微妙にずれるが「いとしのエリー」が流行した時期と関連させると、少なくともここでは「小沢健二」本人について表現されていることが推測できる。

さらに「いとしのエリー」に注目すると、1979年にリリースされたこの楽曲はドラマ「ふぞろいの林檎たち」の主題歌に用いられていた。おそらく歌詞にある「ふぞろいな心」とはこのドラマと関連させたフレーズである。またこのドラマは若者たちの葛藤を描く作品であるらしく、「今でも僕らをやるせなく悩ませるのさ」は小沢さんなりの解釈が表現されたフレーズだと考えられる。やはりここでも若者の「虚無感」「漠然とした不安感」が表される形となっている。

 最後に注目したいのは「僕ら」の解釈だ。今までの歌詞では「僕ら」とは「僕」を含めた「恋人」や「家族や友人」というところだった。しかし、あくまで私の感触だが、ここでの「僕ら」は「同世代の若者たち」に向けられているとも考えられる。(実際サビ1、サビ2でも「僕ら」をそう解釈することは可能。またサビで視点を大きく変化させるという点でも自然な流れ)

 

Aメロ5

ぶしげにきっと彼女(のじょ)つげをふせて

ほんのちょっと息(き)をて走()って降りてく

大きな川を渡が見える場所を歩

 

 「きっと」いう副詞とここまでの展開を考えると、ここで描かれているシーンは、主人公が頭の中に思い描いているイメージだとわかる。「まつげをふせて」や「ほんのちょっと」などの繊細な描写は「彼女」つまりは「君」に対する印象の強さを思わせる。

 「走って降りてくる」とは内容が状況が明記させていないが、想像するにAメロ2、Aメロ3の「君の住む部屋へと急ぐ」の内容と時間軸がつながっている可能性が高い。

 

 最後の一文は意味の捉え方、解釈が非常に難しい。当楽曲では単に情景を表現しているだけの可能性もあるが、小沢さんの楽曲である「強い気持ち・強い愛」にも「大きく深い川 君と僕は渡る」というに類似したフレーズが存在している。その楽曲の大サビでは「僕」が「君」と共に人生を乗り越えていくという強い意志が表現されており、また楽曲全体の歌詞の雰囲気としても似ていなくもない。

二曲の関連性の有無については定かではないが、一つだけ確かなことは「川」や「雨」などの「」は小沢さんにとって重要な要素であることだ。さらに「水」の要素は2010年代においてはより顕著なものとして楽曲の数々に色濃く表現され、やはり序盤、終盤に描かれることが多い。

 

サビ4(大サビ)

いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて生きるのさ

それだけがただ僕らを悩める時にも未来の世界へ連れてく

 

 

  大サビはサビ1と同じフレーズとなった。実は繰り返し同じ表現が使われるのはここが初めてであり、同時にこのパートが小沢さんが最もリスナーに届けたい言葉なのだろう。

そして曲の題名でもある「愛し愛されて生きるのさ」というフレーズで最初と最後を飾るシンプルなまとめ方は歌詞の奥深さを楽曲の中に集約させる上でとても機転の利いた発想だと私は思う。

 ここまでくると「未来の世界へ連れてく」の意味がなんとなく理解できてくるのではないだろうか。

 

Aメロ6

月が輝く夜空が待ってる夕べさ

突然ほんのちょっと誰かに会いたくなるのさ

そんな言い訳を用意して 君の住む部屋へと急ぐ

 最後のパートはAメロ4を繰り返す形となった。最後に再び過去の時間軸に戻して楽曲の世界を閉じることから、楽曲全体を一つの固まりとして大きく包み込もうとするような小沢さんの意図が感じられる。

 余談だがこの楽曲の面白さのひとつは、「君」という「僕」にとっての恋人が楽曲の流れの中で自然と「恋」ではなく「愛」と捉えて考えられるようになっている点だ。当時の小沢さんにはまだ恋愛色が色濃くあったにも関わらず、テーマに拘った楽曲の軸を順守した工夫はかなり質が高い。

おわりに

「愛し愛されて生きるのさ」という楽曲はここまで見てきた通り、非常に繊細かつ強弱のある文章表現と、丁寧かつ様々な工夫が施された構成によって、楽曲のテーマを組み上げた作品であった。「過去」と「現在」の二つの時間軸を併用した世界観に、小沢さん本人も含めた当時の若者たちが抱える都会に立ち込める漠然とした不安を落とし込む形になった。また私はこの物語が、誰もが生活の中で漠然とふいに思い浮かぶ感覚が「愛」などの大きなテーマに結びついていくという流れを大切にしたいと思っている。つまりは日常からかけ離れた感性とは日常ありきであるいうことだ。

 改めて「愛し愛されて生きるのさ」は素晴らしい作品であった。(完)

 

 

 

 

 

愛し愛されて生きるのさ 前編

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はじめに

 一曲目に取り上げる小沢健二さんの楽曲「愛し愛されて生きるのさ」は1994年にリリースされた2ndアルバム「LIFE」の先頭を務める小沢健二の代表作に数えられる名曲である。この曲の特徴である言葉遊びの多様さ、シンプルかつ洗練されたフレーズワーク、明確なテーマが強調された楽曲構成など90年代の小沢さんらしい作品だ。

「愛し愛されていきるのさ」という曲は題名の通り「」を主題とし時間軸と結びつきながらこのテーマを深め、絞りだしていく。この曲の英題「LOVE IS WHAT WE NEED」のことも頭に入れながら「共有される愛」について考えていきたい。

 

↑ 愛し愛されて生きるのさ

本論

  Aメロ1

 

とおり雨がンクリーめてゆくのさ

僕(く)らの心(っころ)の中へ浸みこむようさ

の通(とお)りの向う側 水をねて誰(れ)か走(し)

 まず文頭を母音[o]で合わせ、アクセントに母音[o]をちりばめている様子がわかる。さらに最後の固まりでは母音[a]で遊び心を協調している。このように曲初めから言葉遊びを全開させているのだ。また文末の「さ」が軽く言い離す気持ちを伝え、感情が現実と並行している印象を与える。音楽全体で多用されることにも注目したい。

 「僕ら」とは何を指すのか?この時点では不明瞭である。またこの「誰か」とはこの場面ではシーンの一部(細部)として捉えられそうだ。
さらに「コンクリート」というフレーズは文章に現実感を引き立てる非常に効果的な使われ方をしている。

 

 Aメロ2

夕方(ゆうがたに簡単(ん)に雨(め)その後(と)で

茶でもみに行うなん電話(んわ)をかけ

駅からの道を行 の住む部屋へと急

 まず一行目の母音[a]を約一文字刻みに用いることでアクセントを充実させている
さらにAメロ1とは異なる多様な韻の踏み方をしていることから、思いついたフレーズの要素から上手に韻を見つけ表現している小沢さんの意図が感じられる。つまり言葉の意味選びが韻選びに先行しているということだ。

 ストーリー的に考えると一行目で「雨上がり」が表現されていることから、このパートはAメロ1と関連していることがわかる。また「君」の登場によって、Aメロ1にあった「僕ら」は君と僕を差すものだと解釈できる。さらに「僕」の「君」に対する態度から二人は付き合いの短くない恋人なのかもしれない(小沢健二本人のイメージにも合う)加えて「部屋」という単語はとても都会(アーバン)らしい発想だとも思う。

 

サビ1

いつって可笑しいほど誰(れ)も誰(れ)か愛(い)し愛(い)されて生きるのさ

れだけが僕(く)らを悩(や)める時(き)にも未来の世界へ連れて

 一般的な日本の楽曲はBメロを間に挟む場合が多いが、小沢さんの楽曲の場合にはほとんどBメロは存在しない。「Aメロ→サビ」の流れは洋楽曲に多い構成らしく、本人もその影響を受けいていると考えられる。
 一行目の「だ」「あ」による韻を活用したアクセントの使い方が、強調したいフレーズを強調するという意図に有効的に結び付けられている。また二行目の韻の踏み方は母音[a][o]を組み合わせるというかなり高度な表現で「未来の…」との音程的ギャップ(強弱)を強く生み出しいる。

小沢さんの特徴としてサビにおいて普遍性を表現する例が多く見られ、この曲もそれに該当する。その一つの根拠にここでは限定的な名詞が用いられていない。

主語を「誰」におくことで対象を広げ「愛」という言葉を使い、さらに言葉を重ねることで、「愛し愛されて生きるのさ」のテーマがこのサビにあることを強調しているように考えられる。ただこの時点ではこのテーマにまだ掘り下げられていないため、この時点では言及することはできない。

 また「将来」を「未来の世界」という柔らかい言葉に言い換えている点が小沢さんらしい。2010年代の楽曲でも多様に用いられるようになっている。

 

 Aメロ3

ナーンにも見えない夜空仰向けで見てた

っと手をばせば僕(く)らは手をつなげたさ

けどそんな時は過ぎて 大人になりずいぶん経

 理由は定かではないが韻の踏みが明らかに少なくなった。「ナーン」という口語表現も組み込まれていて、「僕」の気持ちに寄り添った描かれ方がしている。

Aメロ2「夕方」とこの「夜空」に関連性(時間帯的なつながり)がわかることから、サビ前ストーリーの続きが描かれていることだと仮定しよう。

 そして三行目でここまでのストーリーが一気に転換する。つまりここまでは、大人になる前が描かれていたと言うことになり、二行目に関して言えば「君」と「手をつなげなかった」、つまりは「結ばれなかった」ことを表現していると解釈できる。

 また「大人になりずいぶん経つ」といっても小沢さん本人が20代であったことを踏まえれば「僕ら」自身も「若者」であるとわかるだろう。

 

サビ2

されてばかりの10代(じゅうだい)ぎ分別(んべつ)もついて歳(とし)をとり

夢から夢といつも醒めぬまま僕らは未来の世界へ駆けて

 Aメロを一つだけしか挟んでいないことから「サビに戻ってくる」というとらえ方が適切ではないかと思われる。(前Aメロでのストーリーの大きな動きも関連して)

 ここまで表現されていた「僕ら」が「ふたくれてばかりの10代」に一致する。肯定も否定もせず、現実をありのままに語るアルバム「LIFE」らしいテーマが表現されていることがわかる。夢から覚めない「僕」は曲全体で表現されていることもわかってきた。

 

Aメロ4

月(き)輝(かがや夜空がって夕(う)べさ

突然(つぜん)のちょっと誰(れ)るのさ

んな言い訳を用意(うい)して 君の住む部屋へと急

 

 ここでは、またもや時間軸が大きく変化し、ストーリーが再びAメロ2まで戻ったとも考えらえる。韻の踏み方もAメロ3よりも圧倒的に多様かつ賑やかで戻し感がする。

また二行目の「誰かに会いたくなるのさ」において「誰か」を「君」だと断定していない点に注目したい。そして三行目の行動から「誰か」に会いたくなったから「君」に会う、という「僕」(つまりは小沢さん)の価値観が描かれ、ひいてはそれが「愛」の普遍性という大きな楽曲テーマを体現しているのだ。

 

後編へつづく